私は嘘をつく人と、人の真似をする人が大嫌いだ。
しゃーしゃーと嘘をつく人、嘘をつく必要なんて全くないのに、わざわざつくのはなぜ!?
そして、何より恥ずかしいのはその嘘はばれてるということに本人だけ気が付いていないこと。
真似をされることも、することも嫌い。といってもいまだかつて私は人のまねをした記憶はないけれど。
だいたい日本人は、まねっこ人種だとよく言われる。
人がどうやっているか、どう言っているか まず他人が気になる。
そして他人を見て、その後自分の考えをそれに合わせて創る。
そのこと自体あまりいいことだと思えない。
だってそれは個性、独創性から程遠く離れているから。
やはり間違うと叱られるという日本の教育方針からきているのだろうか。
それとも、自分で考えつくことができないからか!?
間違いなんていうのは答えが決まっている数学以外では、ないはずだ。
間違いではない、考え方の違いだ!
と私は言いたい。だから日本人は「討論」に弱い人種なんだろう。
数学以外での「答え」は誰かが決めた答えだから。
その誰かの答えだって間違っているかもしれないじゃない?
全てがイエスとノーで割り切れるものではないことは当たり前だが、日本という国にはその中間があまりにも多く占め過ぎている。私の嫌いな、「どちらでもない」が大好きな人種なんだな~。
娘がドイツで生まれ育ち、3歳くらいの時の夏休み、日本に3週間ほど滞在した時のこと。
英才教育をしているという友人に誘われて娘を絵画教室へ参加させた。
絵画教室の先生は真っ白の画用紙をそれぞれの子供達に手渡し、
「さぁ、ここに好きな絵を描いてください」
と言われた。
娘はクレヨンを手渡されるや否や、ぶわ~~~っと勢いよく好きな絵を思い浮かぶがままにカラフルに描き始めた。ドイツではこういう状況ではみな一斉に描き始める。見ているのは自分の画用紙だけ。
そして、その場にいた3人の同じ机に座った子供達は、娘の画用紙を「ちら見」している。まだ3歳なのにそのこそっと覗き込む光景はなんだか不自然に映った。まず人のを見て、アイデアをもらい、自分風にアレンジして描き始めた。その時に、あ~日本だな~と感じたものだ。無難だな~と。
でもきっと私も子供のころはそうだったに違いない。
もうひとつ、
娘の通っていたドイツの小学校のクラス懇談会の具合を紹介したい。娘は私立のカトリック小学校だったので教育熱心な親御さんが多かったのは確かであるが、おそらく、公立でも一般的にはほぼ同じだと思う。
まず懇談会の始まる時間は夜8時。
この時間だと、子供を家に置いて親が出てこれる時間帯ということから、らしい。夜8時から懇談会!
始めは驚いた。だがどの家も両親のうちどちらかは、ほぼ参加できる。
そして。円陣を組んで座り、子育てに関するテーマに添って一人づつ自分の考えを皆に発表する。
そして、「私も同じく」、や、「先程と同じように」、という言葉はほぼ聞かされない。日本では右に同じく、みたいなことが多い。
その代わりにドイツでは、「私はそうは思いません」、「それに付け加えて」、などいかに自分が他人と違った意見を持っているかを勝負する、みたいなところがある。
日本人である私はいささかそれにストレスを感じる部分はあったが、日本へ来て、あまりにも同じ様に、同じ様に、というのにイライラが募ることもしばしば・・・。
常々思っているのだが、佐々木絶学軒先生の数日前の~徒然なるままに~で、まさにその事に触れられていた。
なぜ私が「人の真似」に対してそんなに反応するのかをはっきり言葉で表わしてくれ、すっきりした。
ここに先生の言葉を紹介したい。
~出来る奴、常に斬新 個性的 独創的で 常に前向き
出来ぬ奴 常に人まね 同じ事 無難無難で 常に停滞~
まさに自分の個性、独創力を養い、人とは違う 自分を創り出していきたい。この日本では難しいがせめて、それができる分野に自分が生きていることを幸いに思う。