2011年11月28日月曜日

どうしてこんなに歌いにくいのか。

以前歌った時はこんなに抵抗はなかったが・・・

原條あき子。太平洋戦争中に私の亡き祖母、歌人・原田スエより一回り若い時代を生きてきた、福永武彦・中村真一郎・加藤周一氏らとマチネ・ポエティック活動をしてきた詩人である。

この度彼女の詩に中田喜直が曲を付けた「髪」を歌うのだが、なかなか難しい。

その詩のもつ独特の韻の踏み方を尊重しつつ作曲家の感じた言葉と音とのバランスも崩さないように歌う。どうしても美しいメロディーがついているとそちらが優先し、詩のもつリズムがないがしろになってしまう。

どうして、こんなに、私と「そこ」に距離が生まれているのか・・・必死に探す。

「音楽と詩の結合」

歌えば歌うほどその妙な違和感が逆に心地よくなってきている。もしかしたらそれが中田喜直の意図した点なのか!?

そう考えたらドイツリートなどは凄い。韻を踏むドイツの詩にはそれにあった音声とリズムがぴったりとくっつく。もちろん作曲によって異なるのは当然だが・・・

この原條あき子らのマチネ・ポエティックの反応は薄く、今に至るまでその全集が出版されただけで終わってしまったのには日本語という言葉が韻を踏むに適さない言葉だから、という理由があるとも考えられるのではないだろうか。

私たちの話す言葉には、それぞれ違ったリズムや音がある、日本語は淡々と、まっすぐ、平べったい語感。腹話術のようにほとんど口を動かさなくても、ほとんどの言葉をしゃべることができる。

語るように唄い、歌うように語るレシタティーヴォに表現されるドイツ語、ゲーテの詩は、抑揚と間合いと韻を踏む朗唱によって、その真価が発揮されたという。

ゲーテには、詩に過度の情感を込めているように聴こえてくるアリアのような、大袈裟な表現を好まなかったのだ。付される音楽の助けを借りなくても、詩の持つ価値が損なわれるものではなかった。むしろ言葉の趣向を変形しかねない音楽の支援は、かえって迷惑だったかもしれない。

どれだけ詩のリズムが大切か。ということであろう。

今回私が歌う「髪」も
大げさな表現をすればするほど、へんてこな出来具合になるのだ。

油断をすると情熱的になってしまうそのメロディーと、淡々とした詩の韻を楽しむ、加えてかなり抽象的な内容の部分に付けられた抽象的な和声。そこが非常に魅力的だ。

ゲーテの詩に戻るが、言葉の持つ躍動感や韻の持つ味をどうやってその形式に収めるか、そこが重要であり、音楽はただそれに添えられるもの。というものだった。

ようするに「言葉の芸術」を優先。
その言葉のもつ「躍動感」というのが日本語には薄いように思う。

そしてこの中田喜直が作曲した「髪」。韻を踏む原條あき子の詩に、レチタティーヴォにはじまり、アリアへと流れ込む不思議な表情をつけている。

どうしてこんなに歌いにくいのか、今日はそれを考えながら練習したのだが少し枠組みが見えてきたように思う。

と言ったところで、お腹がすいて・・・^^;
5分で作った14時のお昼ご飯。ココナッツオイルでパストラミビーフチャーハン!
昨晩のグリルチキン+目玉焼き乗せ~♪ うふっ






これが見かけによらず美味しかったのです~^0^
ココナッツオイルは身体に良し!味よし!の魔法のオイルです!